五の章  さくら
 (お侍 extra)
 




     料 峭 〜序



あれは何時のことだったろか、
七郎次が言っていたことをふと思い出す。
時折 顔を見に戻る“蛍屋”でのことじゃあなかったか。


  ―― 勘兵衛様は、風のようなお人ですからねぇ。


口の重いは相変わらずな久蔵を、
こちらも相変わらず、母御のように構うのが常の七郎次であり。
母屋での歓談で時を過ごして、
宵も更けたと通されたのは、いつも逗留する離れの一室。
つやが出るほどよくよく磨かれた桟に肘をかけ、
小粋な庭へと眸をやって。
りいりいと鳴く虫の声に耳傾けつつ、
夜陰垂れ込める 窓の外、何を見るでなく眺めておれば、

 「とんだタヌキに惚れてしまったこと、
  じりじりしておいでなんじゃあありませぬか。」

年月を経て得たものか、
何にも動じずの、激さず、納まり返っているのが面憎いと。
風呂に向かって不在となった勘兵衛のことを差し、
こそり、水を向けて来たことがあり。

 「…。」

冷然とした態度の下に秘しての、そうそうは窺えぬだろうこと。
だのに、この彼にかかっては、
こうまであっさり見透かされているものかと。
思いも拠らぬ奇襲に遭って、紅の双眸が仄かに揺らいだことが、
そのまま“是”というお返事になってしまったようであり。

 「…。」

何と言っても、相手はこちらの意を酌むのが上手なおっ母様。
嘘さえつけない不器用者が、
往生際悪く 隠しだてをしたって始まらぬ。
彼を相手に片意地張っても詮無いことと、
そこはあっさり思い直したものの、

 「……。」

こちらは相も変わらず言葉が足らぬ身。
この腹の底の曖昧なくすぶりは、はて何と言ったらいいものか。
胸の裡
(うち)を爪繰りもっての、
躊躇とも困惑ともつかない、戸惑うような様子を見せておれば。
やさしい目許をやんわり細めた七郎次、

 「これは…心当たりが有り過ぎなようですねぇ。」

さもありなんと先に言い当て、それは柔らかく微笑って見せる。
行儀のいい手がそりゃあ優美に茶器を操り、
冴えた夜気の中へ清かに香り立つ茶を丁寧に淹れると。
いつもの習慣、手のひらの中にくるみ込み、熱さを微妙に宥めてから、
あらためての“どうぞ”と、
丸みも懐っこい磁器の湯飲みを、塗りの盆にて渡して下さり。
そして、

 「勘兵衛様は、風みたいなお人ですからねぇ。」

自分にも心覚えがあるというよな口ぶりで、
そんな意外な言いようをした。

 「…風?」

  ―― あんなに存在感がある もののふだというのに?

確かに流浪の身ではあるけれど、
経験という蓄積を突っ込んだ袖斗
(ひきだし)が多い身なせいか、
どんな場面でも飄々と切り抜けてしまえる、
大胆さや度胸の持ち主であり。

  その気骨はいっそ頑迷なくらいに実直で。

風だなんて取り留めがないもので喩えられるような、
曖昧で浮ついた人物なんかじゃなかろう。
そんな言う あなただとて、頼みにしているではないかと。
久蔵が怪訝そうに目許をしばたたかせたところ、
そんな反駁を受け止めた上でだろ、

 「だって、これまで誰にも捕まえることが出来なんだお人ですからねぇ。」

七郎次は ふふと小さく微笑って見せる。
けどでも、そんなことを言う彼を、ちゃんと覚えていた勘兵衛ではなかったか?
生死も判らぬ状態で離れ離れとなった七郎次が、
何とか生きながらえて蛍屋にいること、
ちゃんと知っていながら、でも逢いに行かなかった勘兵衛だったのは。
出来ればそのまま、触れずにおきたかったから。
それって…そんな形で大切にしたがっていた、
幸せに暮らしなさいと見守っていたということじゃあないのだろうか。

 「……。」

誰かへの思慕や情という想いは、
常にすぐ間近にいて伝えなければ、有っても無いものとされるのだろか?
逢えないままだったならいざ知らず、再会果たせた身であって、
勘兵衛がいかに変わらぬかへと、
そりゃあしみじみ喜んでいた七郎次ではなかったか?
そんな気がして、やっぱり飲み込めなかったらしい久蔵へ、

 「おや。」

細かい思索はともかくとして、
あなたがそれを言うのかと、口にしたげな彼らしいと、
やはりあっさり感づいたらしい七郎次であり。
もうそうまで甘やかなこと、察せるようになりましたかと言いたげに、
綺麗な口許、はんなりとほころばせる君へ、

 「…俺も、待っていた。」
 「あ、そうでしたね。」

重ねて言われ、そうだったそうだったと。
神無村から引き受けた仕事という先約が片付くまで、
そっちにばかり集中してらした勘兵衛様をじっと待っておいででしたっけ。
その間は、あさって向いてる壮年様のこと、
間近で大人しく見守っていたようなもの。
そこをそれこそ今になって思い出した若主人、

 「だったら尚更、もう気づいてるんじゃあないですか?」
 「?」

かくりと小首を傾げる、年下年若の愛し子へ。
言ったものかどうしよか、
それこそ今更の躊躇がその胸を掠めたらしかったものの。
低められたお声が、甘く響いて囁いたのが、


  「勘兵衛様がどれほど罪なお人かってことですよ。」


有明のみが照らす部屋には、
遠い座敷からの喧噪が遠い遠い空言のように届き。
窓辺にいた久蔵のほうを向き、
少しほどうつむき加減でいたせいか、
七郎次の白いお顔は仄かに陰ってて。

  そんなせいだったのだろか。

ちょっぴり眉を下げてのお言いようが、
あんまり好きじゃあない“告げ口”をしちゃったことよりも、
余計な差し出口をしちゃったことへの“ごめんなさい”を、
色濃く含ませているよに見えもしたものだった。





  ◇◇◇



あれはこういう意味だったかと、
のちのちになっての時々に、胸に迫って判るようになった。

慕わしいという想いが育てば育つほど、どうしてだろか不安も膨らむ。
何か言いたげな気配を察しては、
いかがしたかと懐ろへ入れてはくれるが、
いつまでこうしていてくれるのだろうかと、
余計な不安に切なさがつのる。
遠くを見やる眼差しが、存外に繊細な横顔が、
そのまま何処かへ立ち去ってしまいそうに思えてならず。


  これほどの男が、なのに、ずっと独り身でいたのは。
  誰とも共に居ようと、共に行こうとしない、
  それどころか、不意にするりと逃れてしまうつれなさを、
  拭えぬ業ででもあるかのように、
  常にその身へまとわせてたからだと。
  ふとした折々に、思い知らされてしまうから…。


気を張れば威容みなぎり、
泰然と構えれば、厭味のない鷹揚さが器の大きさ偲ばせもするけれど、
日頃はあくまでも静かで控えめにと装っており。
隠し切れない人性としての風格からか、
いかにも堅物然としていて、取っつきにくく見えもする筈が、
気がつけば人々が彼を慕って輪を作る。
人望があるものの、あるだけ責任感も強すぎて、
全てを背負ってしまう誠実さが仇になる男。
そんな輩だと、単純に思ってた。

 『どうか我らにのみ任せきり、
  里の者らは一歩たりとも出て来ぬように。』

時折持ち出す“謀りごと”は軽妙で要領がいいけれど、
大胆な策も厭わずの、飄々としているように見せて…実はそうではない。
懐ろ深くて許容も広く、
艱難にもてあそばれる弱い者を庇ってやりもするくせに。
寂しい悲しいとすがるのは構わない、
でも、何とか一人で立てるようになれて、
あなたの心をと向かい合ったその途端、
寂しげに微笑って、その身を退いてしまう人。
あて処なく漂うばかりの我なぞ捨て置けと、
先へおゆきと背中を叩く人。
慕う者が抱いた想いをどう解釈しているやら、
さぁさ行かぬかと突き放すひどい人。

朴念仁も度が過ぎると業腹と、
七郎次が苦笑をしたのはそんなせい。
そして、そんな心情をやっとのこと語ってくれたのは、
優しい彼の懐ろから、久蔵が一旦離れてからのこと……。



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  *やっと、いよいよ、正念場に入るのですが。
   ううう、厳しいですよう。

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